かわいひでとし日記
令和5年3月10日      マイノリティ      人は皆ガマンして生きている
  
LGBTが何かと議論になっている。

その中で特にトランス女性について取り上げられる事が多い。

ゆっくり一つずつ考えてみたい。


まず入口の思いとしては、本当に正直な思いとしては、「きもい」と思う。

けれど、見た目の事は本質ではないので思いから除外することにする。

彼女は生物学的には男性だが、女性として生きている、というのなら、

別に何も問題は無い。

女性の様な見た目にして女性として振舞って生きているのだからそれで良い。

けれど、客観的には女性には見えないという人も多く居る。

その人が女性トイレに入って来るというのは、

一般の女性にとってはかなりショックな事であるのは確かだ。

けれど彼女は自分は女性だと思っているので女性トイレに入るのは当然だと思っている。

という事は、どちらかが譲らなければならないという事だ。

であれば、見た目が男性に見えてしまうのであれば

ガマンして男性トイレに入れないものだろうか。

しかし彼女としては、自分は女性なのに男性トイレに入るというのは精神的な苦痛だろう。

それと同時に一般女性も苦痛を感じる事になる。

では女性の姿をしているけれど男性に見える人が男性トイレに入ってきたら、

一般男性はどう思うだろうか。

この場合、一般女性が受けるショックよりはいくらか軽い様な気もする。

いわゆる「オカマか」と言う感じで受け流す様な気がしないでもない。

しかしどっちにしろ、何かしらの軋轢が起こる。

じゃあしょうがないから、女性だと思っているのなら女性トイレへどうぞ、

という事なのだろうか。

しかしそれでトランス女性は良いかもしれないが、

一般女性のショックはどうすれば良いのだ。

多数派がガマンしなければならないというのは不条理ではないのか。
  
ということは、トイレは性別で分けないで、完全防音個室のみにする、とか、、、。


今道を歩いていれば何処にでも点字ブロックが有る。

けれど、目の不自由な人というのは圧倒的に少数派だ。

にも拘わらず何処にでも点字ブロックが有るわけで、

トランス問題もインフラの整備を待つしか無いのかもしれない。

更衣室も完全個室にして、温泉も水着着用の混浴にする、、、、。


例えば企業の受付にトランス女性が、

それもどう見ても女装している男性にしか見えないトランス女性が座って居たら、

今現在では企業イメージにダメージが有るだろうと思う。

いや、もう既に理解されるのではないかという気もする、少なくとも日本では。


いずれにしろもう少し時代が進んで、それを誰も何とも思わなくなるのを待つしかない。

また、ストレートな人から見れば、「気持ち悪い」と思うのは仕方が無い事で、

それを口に出して言わないのであれば非難される筋合いのものではないと思う。

今現在の世の中では、「ウチは接客業だからトランス女性の人は採用しかねます」

というのは理解できるし、

それを差別というのはまだ時代が追い付いていないのではないだろうか。

なので、自分が客観的にどう見えるかという事まで気を使う必要が有るのではないだろうか。

生物学的に男性で50歳台の人が、自分は7歳の女の子だと自認している、

という記事を見た事が有る。

性別だけでなく年齢も自認に任せてしまうのか、

それはやりすぎだろう、というのが正直な感想だ。

それが認められるなら自分だって20歳だと言いたい。

性別も年齢も有る意味絶対的な事だ。

けれど、自認がそうならそれを認めるというのは、無理が有る。

けれど本人がそうだと言うならそれで良いけれど、

他の人に迷惑をかけない範囲でお願いします、

という事になるのが当然なのではないだろうか。


LGBTだろうが誰だろうが、世の中で生きている人はみんな、

なんらかのガマンをして生きているものだ。

仕事中はスーツを着たり作業着や制服を着たりするが、

それがイヤでも仕事だからガマンして着ている。

自分はこういうことは苦手だと思っても仕事だからとガマンしている。

嫌いな人が居てもガマンして一緒に生活している。

生まれながらにしてブサイクだの、ハゲだのチビだの短足だの、、

アホだのなんだの、みんな色々なものをかかえて生きている。

色々な事をガマンして生きている。

何でもかんでも全部自分のやりたい様に出来るわけではない。

自分は少数派なのだから、ここはガマンしよう、と思って欲しいと思う。

自分は女性だと思うのであれば、一般女性の気持ちも察して欲しいと思う。

というわけで、自分の意見としては、

マイノリティの人は一定程度ガマンする必要が有るのだと思う。

世の中も徐々に変わってゆく、トイレや更衣室も徐々に考え方が変わるのだろう。

今現在の時点で、差別禁止という法律を作るのは、さらなる軋轢を生むだけだと思う。

そういう自分もマイノリティだが、今までずっと多数派に合わせて生きてきた。

それを苦痛だと思った事は無く、それが当たり前だと思って生きてきた。


差別禁止法を作るのは多くの問題を孕んでいると思う。

「理解増進」を進めるのは良いと思うが、それを法律にまでする必要性が有るのだろうか。

G7の中で日本だけがその法律が無いなどと言うけれど、日本以外の6か国はみんなキリスト教国だ。

キリスト教国の様なきつい差別など無かったのではないのか。

日本は、同性愛者を迫害したり死刑にしたりしてきた国とは随分違う。

女性っぽい男性にも理解が有ると思うし、キツい差別などしない国柄だと思う。

差別禁止法を作るのはさらなる軋轢を生む事が懸念されるので反対だ。


さらに確たる証拠は示せないものの、こういった運動に裏が有るのは強く感じる。

これは有るデモでの資料だが、良く見て欲しい。



一体何を目的としているのか。

文化破壊や国の崩壊を目的としている様に見える。

人権とか女性とかの運動でいつも散見されるこういった「ウラの目的」が有る為に、

主張している事に賛同しかねる事が多々あるということだ。

こういった事は、LGBT当事者にとっても迷惑な事だという声も有る。

裏の目的や利権などを排除して純粋な問題として扱って欲しいと思う。


と、自分の意見を順番に書いてみた。

今の自分の結論は、性自認は本人の好きにすれば良いけれど、

社会で生きている以上、自分と社会を俯瞰して客観的に判断して、

社会の一員として譲るところは譲って欲しい、というところだ。

みんなある程度多数派に合わせる必要が有ると考える。


自分個人の考えを書いてみましたが、皆さんはどういう風に考えますか?

あまり無関心ではいられない問題の様なので、自分なりに整理してみてはどうでしょうか。


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LGBとTとQは違う


LGBTQとか同性婚とか


歪んでしまった理由


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