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令和4年11月3日 吉村昭さん 歴史小説 |
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もう20年以上前、このホームページを見てくれていた人と、メールで色々話していた時に、 吉村昭はおもしろいよ、と教えてもらったのがきっかけだった。 昔、さんざん読んだ吉村昭の小説。 歴史小説というのか、記録文学と言うのかわからないが、 昔の出来事を書いている。 今、何十年かぶりに、吉村昭さんの本を色々読み返す事をしている。 一行一行のなにげない表現を読むたびに、 この一行を書く為に、どんだけ資料を探して読んだ事か、 という思いで、吉村さんを一層尊敬する気持ちになった。 吉村昭さんは事実を羅列していくような書き方をする人だ。 事実ではない事をあまり付け足さない、そっけないくらいの文章を書く。 同じ歴史小説でも、司馬遼太郎さんだと、 想像力を働かせてかなり踏み込んだ表現をする。 例えば、その人物がどんな顔をしていたか、どんな声をしていたか、などまで表現する。 けれど、吉村さんの場合、あまり創作は付け加えずに書く。 例えば、当時の話し言葉はどうであったか、これは録音が残っている訳ではなく、 また、文書に残っているのは書き言葉のみなので、あえて現代語で書いている、 と、何かの記事で本人がそう言っていた。 そういう慎重な書き方がかえって信頼感を生んでいる様に思う。 歴史ドラマや小説では「〇〇でござる」とか言う事が多いけれど、 吉村さんは慎重に事実のみを追っているというわけだ。 ある会議が開かれ、出席者が続々と会場に集まった、という場面を書く時も、 その会議に出席していた人の名前を羅列する。 これを書くにはその資料や新聞記事などを読まなければならない。 また、夜間に製品を運搬する場面では、当時の街の様子や、 その夜の月齢はどうだったか、などを調べて書くことになる。 何階建ての○○ビルを通り過ぎると、三日月が低く輝いていた、 という一行を書く為には、かなり色々な資料を漁らなくてはならない。 自分も、古文書を調べて歴史小説を書いてみたいなあ、なんて思った事も有るが、 なかなかどうして、大変な事だ。 古文書と言っても、あっちこっち、多くの物を読まなければならなくなる。 書く以前に、それがとてつもなく大変な作業だ。 吉村さんは晩年、長く入院していたのだそうだ。 そして、娘さんに、「もういいよ」と言ったとのことだ。 「もういいよ」というのは、 もう、医療の機械を外してそのまま死ぬことを選択した、ということだ。 なんだか吉村さんらしい最後だったと思う。 そんな色々な思いでまた、吉村作品を読み返している。 吉村昭さんの教え そばは5本ずつ食う 守っています(だいたい) |
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