1964年というと、自分は8歳だった。
その前後数年の記憶がごちゃごちゃになって残っている。
家族で渋谷まで外食に行くと、246に高架橋を建設中だった光景を覚えている。
建設中の首都高速だ。
中目黒の自宅から渋谷へ行くには、バスに乗っていった。
その当時、山の手通りには「トロリーバス」が走っていたのを覚えている。
そして、道を走っている乗用車はかなり外車が多かった様に思う。
国産車がまだたくさん無かった時代なのだった。
バスには「車掌さん」が乗っていた。ガタガタ揺れるのをものともせず、
太い脚で踏ん張りながら客から切符を受け取ってそれにハサミを入れていたものだった。
鼻から抜けるような声で「次は大橋、大橋でございます」と言っていた声を今でも覚えている。
そのころの渋谷には、既に東急百貨店が有り、向かいに三千里薬品も有った。
山手線は、茶色い電車で、「省線」と呼んでいた。
「国鉄」と言うのと同様で、鉄道省の電車という意味だ。
自分の小学校は目黒区立烏森小学校。
担任の先生は遠藤先生だった。
遠藤幸雄さん。
東京オリンピック、体操の金メダリストだ。
担任だった時が、オリンピック前だったのか後だったのか良く覚えていない。
誠実そうな話し方をする人だった様な記憶が有る。
昔の20代って、今と比べてかなり大人っぽかったような気がする。
20代でもおじさん、という感じの人が多かった様な気がするのは、
自分が子供だったせいなのだろうか、、、。
そして、20代でもおばさんっぽかった人達を覚えている。
東洋の魔女と呼ばれた日本代表の女子バレーボールチームだ。
今写真を見てみると、どう見てもパーマをかけたおばさんにしか見えない(笑)
ある日、庭で一人で遊んでいたらジェット機の音がするので空を見上げると、
ブルーインパルスの五輪のマークが有ったのを覚えている。
あの日が開会式の日だったのだな、、、。10月10日。
あの頃はまだオリンピックの商業化も無く、気候の良い10月にやりましょう、
はい、そうしましょう、だったのだろうと思う。
お金持ちの家のお坊ちゃまで新しもの好きだった自分の父親は、
国産乗用車を2台も持っていた。
日野のコンテッサと、トヨタのパブリカ。
そして開通したばかりの東海道新幹線に、用も無いのに乗りに行ったのも覚えている。
用も無いので、たしか熱海くらいまで行って引き返した様な記憶が有る。
車内で食べた駅弁が、洋風弁当で、チキンライスだったのを覚えている。
なんだかハイカラな弁当だった。
中目黒の自宅から、遠くない所に駒沢の競技場が有った。
競技場の目の前にいとこが住んでいたので、良く行った覚えが有る。
あの競技場は、今でもあの当時のままだ。
お金持ちの家だったので、当時すでに家にテレビが有った。
電話も有ったし、洗濯機も冷蔵庫も有った。
家に電気冷蔵庫が納品されてきた日の事をうっすら覚えている。
丁重に納戸に収められたのだった。
台所ではなく、箪笥などが並んでいる納戸に置くというのは今考えると不思議だ。
それ以前は氷を入れる冷蔵庫が有ったのも覚えている。
自分の生まれた家は江戸時代から続く地主で、あのあたり一帯が全部自分の土地だったという家だった。
今でも、中目黒駅から自分の自宅の有ったあたりまで登って行く坂道は、
自分の家の名前が残っている。「小川坂」という坂道だ。
ちなみに、お坊ちゃまだった自分の父親が全部潰して破産してくれたお陰で、
自分には一銭も財産は残らなかった。
それにしても、1964年頃というのは、日本がしゃかりきになって働いて、猛烈に成長していた時代で、
考えてみると、とてもとても幸せな時代だったのだなあ、と思う。
今回の東京オリンピックはコロナ禍でのオリンピックとなり、史上初めて1年延期で開催された。
中止にならなくて良かったと思う。
1940年の東京オリンピックは戦争の為中止になっているのだ。
今回のこの東京オリンピックは、10年後、50年後にどんな評価が下されるだろう。
たぶん、きっと、伝染病に立ち向かって皆が団結し、
開催地としての責任を、きちんと果たした大会だったと評価されるのではないだろうか。
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