かわいひでとし日記
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令和2年1月18日      実年齢?      人生の残り時間


実年齢って何の意味が有るのだろうか、と、ふと考える。

お役所的な事以外、特に意味は無いのではないだろうか。

個人差は大きい。

だから実年齢ではなく、実際の体力だの能力だのの年齢を考えるべきではないだろうか。

と、思うことにした。

そう思わなくてはやってらんないのだ。

もう歳だからやらない、という選択肢は無いはずだ。

歳でもやりたければやりなさいよ、という事だ。



自分の残りの人生があと何年くらいあるのか、考える。

あと30年、20年、10年、5年、、、、。

しかし、だからどうした、という事ではないだろうか。

長さなど関係ないのだ。


サン・テグジュペリの「人間の土地」という本の中に、

死刑囚が最後のタバコを貰う事について書かれていた。

もう数分後には命が絶たれるのに、なぜタバコを吸うのか。

もう死ぬんだから吸ったってしょーがないじゃないか、ということではないのだ。

最後の数分はその人にとって永遠の数分なのだ。

自分の人生の残りがあと数年であっても、それがその人にとっての永遠なのだ。

生きているということは、たとえそれが数分であっても数年であっても、

前に向かって進むということなのだ。

生きているということは、ただ呼吸だけしているのではない。

その長さに関係無く進んでいくことなのだ。

だから、残りの人生が何年だろうが何分だろうが関係ないのだ。

10代20代の若者のように、目標に向かって進めば良いのだ。


ただ、その為に必要なのは健康だ。

体が健康でなければできないのだ。

いや、病気でもできることはあるから健康も関係ないのかもしれない。

しかし、病気をしたりすればできる事は限られてしまう。

ところが、限られてしまっても、その限られたものが全てであり、永遠なのだろう。

きっとそうなのだ。

例えば失明してしまったら。

病気もせず、あまり良く知らない人にとっては、失明したらもう生きていたってしょーがないのではないか、くらいに思ってしまうだろうが、

けれど、失明した人にとって、その制約の中が全てであり、永遠なのではないだろうか。

健常者と何も変わらず、その永遠の人生を生きるのだ。

 

俺はぜってー100歳まで生きるのだ、と言っていた人が80歳で死んだとしても、

同じことなのだ。

100歳まで生きるつもりで生きた80年も、100年も変わりはしないのだ。


しかし、しかし、病気をせず健康でいれば制約も少ないのだ。

そんなわけで、残りの寿命を永遠に使うために、病気にならず、健康な体でいることがどれだけ大切か、ということだと思う。


と、いうことで、20代くらいの若い時から続けて有酸素運動をしましょう。

いや、もう私は60代になってしまった、という人でも、その時から始めるのが最速なのだ。

始めましょう。有酸素運動。

エアロビクス



追記

以前の日記で、死ぬときのことを書いたことが有る。

自分の想像だが、意識が無くなって生命が停止するまでの数分間は、

その人にとって永遠の長さなのだろうと思うのだ。

その数分に死後の世界なり、天国なりが有るのだろうと思う。




死がふたりを分かつまで

永遠の一瞬

砂漠の真ん中で






 
 


 

 


 


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