令和元年7月6日 一次予選
きつい運動の喜び
1990年代、エアロビクスにハマりにハマっていた時期。
競技エアロにもハマって、エアロの大会が有れば何処へでも行って出場していた。
競技エアロというと、テレビで放映されるのは決勝のみ。
決勝ということは、予選が有る訳で、その予選というのは全員(3~4百人)が
フロアで同時に40分くらいエクササイズをするもので、テレビでは放映されない。
全員が動いている中を審査員が歩き回って2次予選進出者をピックアップしていく。
普通のエアロビクスではなく、競技エアロなので、高強度の動きが入る。
その中でも特に、ハイキック(ハイレグキック)は、かなりくたばる。
脚を伸ばして高く振り上げるハイキック。
つま先を伸ばしてきれいに、勢いを使わずコントロールされた動きでやらなければならないということは、柔軟性と筋力と、体幹がしっかりしていないときちんとやることは出来ない。
審査委員長は山岡有美先生。
日本でエアロビクスを広めた、今は無きスタジオNAFAの先生。
(今は無きはスタジオNAFAにかかっているのであって、山岡先生はご健在です)
山岡先生が大好きだったなあ。
テレビでエアロビクスの大会を放映した時にいつも、解説をしていた先生です。
自分がエアロの大会が好きなのは実は、予選が好きなのだった。
あのキツさは、スポーツクラブでは味わえない高強度で、自分の汗が床に水たまりを作るほどだった。
実は、自分がティップネスに入会した当初はまだ、安全面などは今の様にうるさくなく、クラスによってはたまにハイキックが入る事も有ったのだった。
今、スポーツクラブのエアロビクスを見ると、ハイインパクトのクラスが殆ど無い。
なんでもかんでも、安全安全と言う今の風潮はちょっと寂しい気がする、、、、。
確かに、自分がやっていた頃、ハイインパクトばかりやっていたために、足のケガをすることが良く有った。
なんていうのか名前を忘れたけれど、疲労骨折みたいな感じになってしまう事が有ったので、シューズには気を使った。エアーの入っているシューズを使っていた。
エアロビクスの大会での予選と決勝は全くの別物になる。
予選は通常のエアロビクスを高強度にしたものだが、決勝は2分間の個人演技をする。
なので、内容がかなり違っていて、どちらかというと予選が好きだった。
一次予選で100人くらいに絞られ、そこから決勝に進出するのは10名になる。
自分はいつも、1次予選は通過出来たが、決勝には残る事が出来なかった。
まあ一番の原因は柔軟性の不足だったろうと思う、、、
ハイキックの場合、自分は12:50くらいの高さだったが、決勝進出者は12:55くらいだったと思う。
この5分の差は大きい、、、、。

必死でストレッチをしていたけれど、硬い身体はなかなか柔らかくならなかった。
スプリット(前後開脚)も、なんとか、「なんちゃってスプリット」くらいまではいったのだけれど、股と床の間に5センチくらいの空間が空いていたのだった。
ただ、一度だけ決勝に残ってしまった事が有った。
予選が終わってシャワーを浴びていたら友達が来て、
おい!早く着替えろ!決勝残ったぞ、って、、、、
一応、個人演技の曲は用意していたものの、まさか決勝に残るとは思っていなかったので、
演技が出来ていなかった、、、、
演技も出来ていず、練習もできていないものをやるわけにもいかず、涙を呑んで棄権したのだった。
ただ内心は棄権してほっとしたし、別に悔しくはなかった。
というのは自分がやりたかったのは予選だったからだ。
あの、とてつもなくキツい予選がやりたかっただけなのだった。
毎年代々木体育館でやったあの予選が懐かしい、、、、
ダイアナロスの We are the children で始まり、
Qeen の I Was Born To Love You、最後に再び We are the
childrenで終わる、
1次予選の音楽は、胸キュンだったなあ、、、、
全日本エアロビクスコンテスト1次予選.mp3

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