あの日の朝、いつもの様に職場に行くと上司から、
今日のお昼から大事な放送が有るので全員ラジオの前に集まる様に、
と言われた。
ああ、きっと戦争に負けたと言うのだろうな、と思ったのだった。
カンカン照りの暑い8月15日の事だった。
ラジオから聞こえて来る天皇の言葉は難しくて
何を言っているのか良くは分らなかったが、
戦争に負けた、という事だけは分ったのだった。
この1945年8月15日という日、実は自分はまだ生まれてはいなかった。
けれど、自分の中にはまるで実際に経験したかの様な「記憶」が残っている。
どうしてかというと、非常に多くの本を読んだからだったし、
年寄りから話を聞いたり、色々な映画やドラマで見た事が有るからだ。
大東亜戦争に関する本は、実にたくさん読んできた。
自分がたくさんの歴史に関する本を読む様になったきっかけは、
中学生の時に家の本棚に有った父親の本を読んでみた事だった。
あれは確か司馬遼太郎の本だったと記憶しているが、読んで見ると非常に面白く、
その後も次々と司馬遼太郎の本を買っては読み、殆ど全部の作品を読み切ってしまった。
司馬遼太郎さんはまるで自分がその場に居たかのように生き生きと書いてくれるので、
とても面白いのだった。
それによって日本の歴史に非常に興味を持つ様になったのだった。
その後もたくさんの本を読んだ。
特に大東亜戦争に関する本や、航空機事故に関する本をたくさん読んだ。
なぜ航空機事故なのかというと、歴史に似た「ロマン」と呼びたくなる様な、
あの時何が有ったのか、という不思議な感覚が有るからだ。
そして、ほんの一部、ボイスレコーダーの音声のみが残っていたりもする。
カムチャツカ半島上空で、大韓航空機がソ連の戦闘機に撃墜された事件。
ソ連のパイロットの音声を自衛隊が記録していた。
「ロックオンした、発射した、目標は撃墜された」。
また、御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機のコックピットでの最後の会話が
ボイスレコーダーに残っていた。
「こりゃ、駄目かもしれんね」「どーんといこう」
非常に不謹慎という事にはなるだろうが、これにロマンを感じられずにはいられなかった。
そして全く、歴史と同じ感覚でも有るのだ。
あの時、どう思ったのか、という事を想像するからだ。
柳田邦男(民俗学者の柳田国男ではなく、ノンフィクション作家の)の書いた
数々の航空機に関する本を漁る様に読んだものだった。
その本の中に零戦に関する本も含まれていた。「零戦燃ゆ」などだ。
その後、吉村昭にもハマったのだった。
吉村さんの本は非常に多くの日本の歴史に関するものが有り、
さらに吉村さんは文体を一切飾らず、そっけないほどの書き方で、
たくさんの史実を紹介してくれるのだ。
吉村さんの著作の中にも「零式戦闘機」という本が有った。
これらを読んでいて非常に強く思ったのは、「今も昔も同じ事をやっている」
という事だった。
要するに、官僚たちが国益ではなく、省益や自分のプライド、
自分の出世を最優先にしていた事によって、国が間違った方向に進んでしまった、
という事なのだ。
国の存亡をかけて戦争をしている最中に陸軍と海軍が仲が悪いだの、
役所のメンツだのにこだわり、どんどん国を悪い方向に導いてしまったのだ。
読みながら、「なんでこんな事やっちゃったんだ」と思わずにはいられなかった。
これはまるで現代の霞が関を思い浮かべるではないか。
役所の縦割り、官僚のメンツと出世最優先主義、現実を見ない建前論、
そして学閥、派閥を優先してしまう感覚などだ。
そんな感覚で次々とあの戦争に関する本を読んでいったのだった。
さらにその後も色々な本を読んだ。
有名なところでは、ドナルドキーン「明治天皇」 竹田恒泰「天皇の国史」
百田尚樹「日本国紀」 李栄薫「反日種族主義」などなど、、、。
こうして自分の中に、昔の「記憶」ができあがり、
さらに自分なりの「国家感」というものが出来上がったのだと思う。
自分の様な無学の者が「国家感」などと言うのもおこがましいが、
それでもたくさんの本を読んだことによって、
自分なりのぼんやりした「日本とは何か」という考えがゆっくり育っていったのだった。
その一番基礎に有る国家感というものが有ってこそ、
「日本はこれからどうするべきか」を考えられるのだろうと思う。
今、日本のリーダー達であるはずの財界人や国会議員や官僚たちに、
まともな国家感が有るのだろうか、と疑問に思わざるを得ない。
どうしてそんな事をやってしまうのか、
という感覚は大東亜戦争の時の本を読んだ感覚と全く同じなのだ。
そして、戦後の教育によるいわゆる「自虐史観」というものがすっかり行き渡っていて、
若い日本人が「日本は昔悪い事をしたから」などと言うのだ。
それは一体何について言っているのか。
東南アジアや韓国を侵略して植民地支配したから、などと言う。
これは一部は正しいが一部は正しくない。
朝鮮半島を「植民地」にした経緯は一体どんな事だったのか、
彼らはまるで軍事侵略して占領したかの様に思っているのだ。
大韓帝国はなぜ独立国になり得たのか、
日本はなぜ資源の無い朝鮮半島を併合する事に同意したのか、
色々な事情をもう少し総合的に考えるべきだ。
そして良く言われるのは欧米型の植民地と日本がやった植民地の違いという事も有る。
略奪ばかりなのか、本土並みの扱いなのかの違いなどの事だ。
歴史に正解は複数あるのだ。偏って考えるべきではないのだ。
物事には裏腹が有り、多面的なものなのだ。
それらを全体的に眺めてから歴史を考えるべきだ。
今、国会での質疑を聞いていると落胆する事が多い。
百田尚樹議員の質問に対する官僚の答弁を聞いていると、
ただただ国会を乗り切ればそれで良いと思っている事が明らかに感じられる。
移民を入れる事による国家的な損失を計算した事が有るのか、
ありません、所管外です。
太陽光発電は電気料金を高騰させるばかりで全くメリットが無いのになぜやるのか、
脱炭素という国家的目標のためです。
国会の委員会で答弁して乗り切ればもうそれで良いのだ。
その後一切その事について考えもしないのだ。
一体、脱炭素という事の科学的根拠は何なのか、気候変動は人間によるものなのか、
明確な証拠は誰も示せていないにも関わらず、
なぜこれほどデメリットばかりの太陽光発電を推進するのか。
その答えは明らかだ。利権でしかない。
政府が「働き方改革」や年収の壁などで国民を働かせない様にしておきながら、
それによって作られた「労働力不足」を補うために移民を入れようとする。
移民を入れる事による社会的コスト(福祉や犯罪増加などなど)が
マイナスになろうとも一切それには目をつぶり、
ただただ移民を入れ続けて国が金銭的に面倒を見てしまう、
これも要するに利権の為でしかない。
彼らは利権や「大人の対応」や自身の身の保全ばかりを考え、
国がどうなろうが知った事ではないのだ。
大東亜戦争の時と全く同じではないか。
これは何も財界人や国会議員たちだけではない。
地方自治体の幹部達も、「多文化共生」とか「LGBT」とか「SDGS」とか「脱炭素」とか、
実態の無い美辞麗句に乗ってしまい、国を危うくしている。
なぜ国民の為のものである生活保護を外国人にまで与え続けるのか、
どうして国民の為の公営住宅に外国人を入れるのか、
なぜ出産一時金を海外に居る外国人にまで配るのか、
おかしな事がたくさん有る。
それは結局は人脈の為、自己保身の為、メンツや出世の為であり、
きちんとした国家感が無いからだろう。
この人達は一体誰の為に、何の為に国のリーダーをやっているのか。
もう一度、司馬遼太郎あたりから始めて日本の歴史を良く勉強したほうが良い。
「もういいよ」
「もういいよ」というのは、「もういいかい、まーだだよ、もういいよ」という時のではなく、
「俺はもういいから、俺を見捨ててくれ」という意味で言う「もういいよ」の話だ。
この言葉を聞くとすぐ思い出すのが小説家の吉村昭さんだ。
病気になり、チューブをたくさんつけて寝たきりになってしまい、
娘さんに「もういいよ」と言ったのだそうだ。
もういいから、チューブを外してくれ、という意味だ。
そして吉村さんは静かに永遠の眠りについたのだった。


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