かわいひでとし日記
令和7年6月7日      人間は1人では生きられない      元気な挨拶
  
東京の様な所に住んでいると、隣近所の人と会話をする様な機会は殆ど無い。

実に気楽だと思う。

長年都内の賃貸に住み続けてきたのでずっとそんな生活だった。

けれど、昭和生まれの自分が子供だった頃、きちんと挨拶をしなさい、だの、

人の目を見て話しなさい、だの、礼儀作法は結構厳しく躾けられたものだった。

学校などでもきちんと挨拶をする事を指導されたものだが、

自分は全寮制の小学校だったので、特に厳しく指導された覚えが有る。

自分の近くに人が居れば挨拶をしたり、世間話をしたり、気を使ったり、

自分の意識の中にちゃんと他人の居場所が有るという精神文化だったと思う。

そういう感覚からすると、すぐ傍に他人が居るのに自分は何かを読んで、

他人には目もくれず、声も掛けない、というのは恐ろしく無礼な振る舞いだ。

けれどすっかりそれが普通の様になってしまった。

なぜなのかというと、「自分の時間を他人に邪魔されたくない」だの、

「うっとうしい」だの「めんどくさい」だの、なのだ。

良く考えて見ると、なんという無礼者であり、なんというイヤな奴だと言えるのではないだろうか。

別に気を使う義理も無い様な他人だから気など使わないのだと思うけれど、

良く考えればやっぱり相当イヤな奴という事になるのではなかろうか。

スマホというものが出来てそれが一層加速された。

スマホを世に広めた張本人のスティーブ・ジョブズは、

自分の子供には教育上の理由からスマホを持たせなかったと言う。

よくもまあ、そんなものを堂々と売ったものだ。


一つたとえ話をすると、若い男が「いいオンナいねーかなー」と、

スマホのマッチングアプリで探しながら歩いていると、

ドンピシャリの「いい女」とすれ違うのだが、

スマホに夢中で観逃がしてしまう、という感じだ。

スマホが出来て一見便利になった様に見えて、

実は人間にとって大きなマイナスなのだろうな、と思う。


若い頃は特にそうなのだが、自分は自分の力で生きているかの様に思い込んでいたりする。

けれど人間は社会で生きる生き物で、1人ではまともに生活は出来ない。

自分は他人の世話になった事など無い、と思っている人でも十分に他人の世話になっているのだ。

そもそも、スイッチを入れれば電気が通ったり、蛇口をひねれば水が出る事自体、

社会というものの中で生きているからこそなのだ。

そう考えれば他人を尊重する気持ちも湧いてくるはずだし、

自分が一番偉いと思ってしまう様な考えにはならないのではないだろうか。


こういう事は職場での飲み会などに参加しない事も同様かと思う。

いつも一緒に仕事をしている人達と、たまにはお付き合いする、

というのは社会人として必要な事なのだろう。

俺は別にあいつらに世話になどなっていない、と思うのは、

やはり若くて稚拙な考えなのではないだろうか。

社会で生きていればたまにはお付き合いという事も必要だ。



自分は最近公営住宅に当選して引っ越しをしたばかりだ。

団地では昔ながらの自治会が有り、当番になると自治会費の集金をしたり、

廊下の掃除をしたりする。

集金などで隣近所に伺えば、世間話の一つもする事になる。

そういう生活をしてみると、これがマトモな大人の生活なんだなあ、とつくづく思う。

廊下で会えば挨拶をしたりするのは人間として当然の事なんだな、とつくづく思う。

そしてそういう生活をして気が付いたのだが、今のところ、イヤな人に会った事が無い。

集金などで伺う部屋の人はみんな、朗らかに対応してくれる人ばかりだ。

頑固で性格が悪いクソジジーの様な人も居るだろうと思っていたが、

そういう人には全然会わないのだ。

結局、自治会でみんながそういう事をやっているからこそ、柔和に対応するクセ

がついているのだろうと思う。

結局、いつもそうしていればそうなる、という事なのだろう。


けれど世の中には近所迷惑な人や自分勝手な人や、

協調性の無いような「イヤな奴」は居るものだ。

ただ、こういう「イヤな奴」というのは思っている程多くはなく、

実際はほんの一握りの少数なのだと思う。

例えば駅などの公共の場では、ぶつかりそうになれば避けてくれるし、

きちんと並んで順番を守ってくれるし、マナーを守ってくれる人が殆どなのだ。

大多数の人がきちんと他人を尊重してくれているのだ。

けれどごく少数の「イヤな奴」が居るからこそ、

他人と関わるのを恐れる様になってしまったりする。

なるべく他人と関わらないようにするのに慣れてしまい、

近所の人と挨拶もしないのが普通になってしまうのだろう。

そう考えると、協調性の無い自分勝手な人間というのは非常に罪が重いのだと思う。


協調性の無い人間というのは結局、子供の頃からの親や学校などの躾けが

とても大きいのではないだろうか。

そしてさらに、「個性を大事にする」などと言って、

他人に合わせる事や他人に気を使う事を軽視してしまった結果でもあるのではなかろうか。

他人と同じ事をするのは没個性だ、という考えがちょっと行き過ぎてしまうのは考えものだと思う。

人間は社会で生き、他人の世話になって生きる動物なのだ。

他人に合わせたり気を使ったりするのは当然の事なのだ。

そういうベースがまず有って、その上で個性を磨くべきなのだろう。

ただこれは日本の文化的な側面も有るのであって、

世界では自分勝手な度合いが高い様に見える。

ヨーロッパでのフランス人の様に(ステレオタイプ的な話)、

自分本位で他人から嫌われても気にしない、というのはかなり迷惑な話だ。

そういう意味で、日本という国は殆どの人が、いわゆる「単一民族」であり、

殆どの人が同じ文化、同じ風習を持っていて、安心感が段違いに高いのだ。

他人を信用しても安心していられるような安心な国なのだと思う。

子供が1人で電車に乗って通学するのが普通に行われている日本という国は、

もっと大切にされなくてはいけないと思う。

多文化共生などという中身を考えず、ただ理念先行の言葉によって、

この国が破壊されるのは避けるべきだと思う。

世界の人と仲良く出来れば素晴らしいが、現実はそうはいかない。

既に日本では色々な問題が起こっている。

「多文化共生」という中身の無い理念は、

「軍隊を無くして戦争の無い平和な世界にしましょう」というのと同レベルの、

非常に非現実的で中身の無い、イメージ先行の空論なのだと思う。

日本人はもっと日本を大切に思わなくてはいけない。


自分は早朝にオフィスの清掃のアルバイトをしている。

掃除をしていると出勤してきた若いサラリーマンたちが、

制服を着て掃除をしているおっさんに対して、

「おはようございます」と明るく挨拶してくれる。

まだまだ日本は捨てたもんじゃないと思う。





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