かわいひでとし日記
令和6年12月20日      外国人が驚く日本      日本を守る
  
外国人が日本に来て驚く事は色々有る様だ。

その中で多い意見は「電車が時間通りに来る」というものだ。

その他、街にゴミが落ちていないとか、モノを盗まれないとか、

子供が1人で歩いているとか、礼儀正しいとか、、、、。

一体何を言っているのだろうか、そんな事に驚かれているこっちが驚きたくなる。

電車が時刻表通りに来るのは通常の事だし、道にゴミを捨てたりはしないのだし、

子供を誘拐しようとは思わないのだし、他人には敬意を払うものなのだし、

そんな当たり前の事で驚くのだから、どれだけ野蛮な国から来たのだ、と言いたくなる。

けれどそれを知らないのは日本人だけの様だ。

外国ではただ歩いているだけで持っているスマホを奪い取られたり、

ネックレスを引きちぎられて盗まれたりしてしまうのだ。

よくもまあ、そんな状態を放置していられるものだ、と日本人としては思ってしまう。


昔、新渡戸稲造がヨーロッパの人と話していて、

「そうすると、日本には強い宗教が無いという事ですか? それではどうやって国民の道徳心を育てるのでしょう」

と聞かれたのだと言う。新渡戸は考え込んでしまって、

その結果「武士道」にたどり着いた、とその本の最初に書いて有る。

悪い事をすると神の罰が下る、という事を言って教育しなくとも、

なぜ日本人は道徳心が高いのか、それは武家のモラルが庶民のお手本になっているから

なのだった。

頻繁に礼拝しに行ったり、強い戒律が有ったり経典が有ったりする事も無い

日本の神道は、外国と比べると果たして「宗教」と呼んで良いのかどうか

疑問になるくらい緩やかな信仰だ。

仏教というものが入って来たけどどうしましょうか、

しょうがないから神さんと仏さん、両方拝んでおけ、なんていうとても緩い宗教だ。

お寺の中に神社が有ったり、お寺でキリストの誕生日を祝ったり、

我々は本当に幸せだとつくづく思う。

ヨーロッパの文化というものは、王侯貴族の文化が庶民に降りてきたものだ。

その文化が降りて来る前の庶民は手を使って食事をし、識字率が非常に低い人達だった。

日本では1300年も前から一般庶民の識字率も一定程度有り、

天皇が作った国定の詩集には一般庶民の詩も掲載されている。

こんな国が他に有るだろうか。

日本にやってきたヨーロッパの宣教師達は、日本の庶民の知性の高さに驚いて、

この国を植民地にするのは難しいだろうと本国に報告している。

江戸時代になると一般庶民が本屋で本を買って読んだり、絵を買って飾ったり、

劇場に観劇しに行ったり、旅行をしたりしている。

中世の庶民がここまでしていたのは本当に凄い事で、こんな国は他に無いだろう。

日本では貴族階級の文化ではなく、武家の文化が庶民に降りてきた。

庶民が通う劇場では、道徳心の高い「立派なお侍さん」が主人公として描かれた。

卑怯な事をしない、嘘を言わない、質素誠実を旨とする、という道徳観念が庶民に広まった。

だからこそ、物を大切にするとか、ご飯粒を残さずに食べるとか、

貧しくても誠実に居るという様な道徳心が日本人に根付いている。

金の為に心を売ったりしない矜持が有る。

質素なものを黙って素早く食べ、贅沢を言わない。

それが日本人の誇りでもある。

だから、ご飯粒を茶わんに残さずに綺麗に食べるのは、

貧乏くさいとかではなくて、我々の誇りなのだ。



百田尚樹著「新版 日本国紀」に、非常に面白いエピソードが書かれている。

江戸時代の「犬のお伊勢参り」という話だ。

江戸時代の庶民にとって、伊勢の神宮にお参りに行くのが憧れだった。

お参りをする為でもあり、旅行を楽しむためでもあった。

友達同士で金を出し合い、代表が伊勢参りに行く様な仕組みも有った。

そして、自分はもう年老いてしまって行けないので、

犬に代わりに行ってもらおうという話が「犬のお伊勢参り」なのだ。

犬の首に路銀を巻いて、「この犬をどうか伊勢まで行かせてください」

という手紙をつける。

旅人はそれを見て、じゃあ途中まで一緒に行ってやろう、と犬を案内してくれる。

夜になって宿屋に泊まる時にも女中さんに口をきいてくれて、その犬を土間に寝かせ、

食事を与える。首に巻いた路銀から食事代を支払う。

それを繰り返しているうちに、釣銭で首の金が重くなってしまうと今度は、

重いだろうから両替してあげよう、と軽くしてくれる。

誰も犬の首から金を盗もうとはせず、むしろ逆に駄賃を与えてくれたりする。

そうやって犬が江戸から伊勢まで往復をしたという実話が残っているのだ。

なんという素敵な国なのだろうか。

この話を読んだだけでも、この素晴らしい国を今後も守っていかなくてはいけない、

と強く思うのだ。



日本は「経済大国」なのだそうだ。

(いやそれも既に過去の話かもしれない)

経済を強くする事は非常に大事な事だ。それが無くては何も出来ない。

また、日本は「技術大国」なのだそうだ。

(いや、これも過去の話かもしれない)

資源が無いのだから技術力で商売をしないといけない。

その為には「人材力」も重要だろう。

技術やそれを作る人材の力というものは、国民の資質にかかっている。

勤勉で努力を惜しまず、知力の高い国民が必要だ。

こういった経済、技術、人材で国を強くしていかなくてはいけない。

ただ、これは他の国もやろうとする事だ。

しかしここに日本の強みが有るはずだ。

それは高い道徳心だ。

「やりたくないからやらない」のではなく、

「やる必要が有るからやる」勤勉な国民という事だ。

何事も「きちんとする」のが当たり前の国民が居ないと技術も経済も成り立たない。

日本の技術援助で外国に建設されたインフラは長く持たないのだそうだ。

それはメンテナンスをきちんと出来ないからなのだと言う。

要するに人材の問題なのだ。


だからこそ、日本は「道徳大国」を標榜するべきなのだ。

この道徳心の高さが有るからこそ、経済も文化も技術も人材も育つのだ。

日本人は道徳のリーダーを目指すべきだ。

日本人は世界に向かって

「なぜあなたの国ではモノが盗まれるのか、なぜそれを放置するのか」と言うべきだ。

「なぜ電車は時刻表を守らないのか、なぜそれを放置していられるのか」と言うべきだ。

そして、日本に入国する人は全て、

他人に敬意を払い、ルールを守らなければ日本から追い出す、と宣言するべきなのだ。

日本には日本の文化や宗教が有り、それを否定する人は入国を断るべきなのだ。

観光客で有ろうが、移民であろうが、日本の文化を守れない人は出て行ってもらう、

ときちんと宣言しておくべきなのだ。

日本に帰化する場合は、日本の文化をリスペクトし、

日本を守る為に働く事を宣誓させる必要が有るのだ。

日本が自他ともに認める「道徳大国」であるならば、

こういう事を「差別」と批判される事も無くなるだろう。



日本にはこの2000年の間、「奴隷」というものは存在しなかった。

外国に行ってその国の人間をさらって来て奴隷にする、

などという野蛮な文化は日本には無い、とはっきり言うべきなのだ。

「彼ら」は今でもまだ、自分達が先進的でアジア人は野蛮だと思い込んでいる。

だからこそ、偉そうに内政干渉して「勧告」したり「助言」したりして来る。

日本人は外国人に、あなたたちこそ野蛮なのだ、とはっきり言ったほうが良いのだ。


これからは、日本は外国の様な野蛮な国ではない「道徳大国」である

という事をきっちり認めさせる努力をしたほうが良いし、

この素晴らしい国の文化をきちんと守っていく努力をするべきだ。





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