サン・テグジュペリの「美質」

 俺が大切に思っている本、サン・テグジュペリの「人間の土地」というのを見て、「童話?」とか「サン・テグジュペリってすごく純粋な事書く人でしょ?」というような声を頂いたので、ちょっと今日はサン・テグジュペリについて書いておこうと思う、、、。

一番有名なのが「星の王子さま」、というより、「星の王子さま」しか知られていないと言ったほうがいいのかもしれない。

「星の王子さま」の中の有名なセリフ「大切なものは目には見えないんだよ」なんていうのが有ったりする。でもさぁ、これって、この言葉だけ読んだって、当たり前すぎるというか抽象的すぎるというか、さんてぐじゅぺりって純粋でロマンチストなんだね、と思うだけのことになってしまうと思うんだよね。

サン・テグジュペリについては偉いフランス文学の先生方がたくさん解説してるだろうから興味の有るひとはそういうのを読んで貰うとして、、、、。

俺としては、サンテックスは「男らしい」人と思ってます。正確には「男らしさ」を崇拝する人、なのかな、、、。どんな男らしさかと言うと、それこそまさに彼が書いている言葉を引用すると(言葉を引用する事の無意味さを感じつつも)

 「なんと呼んでいいか、適当な名称の見あたらない美質が有る。それは、<慎重さ>と呼ぶべきかもしれないが、しかしこの呼び名はまだ十分でない。なぜかというに、この美質は、世にもにこやかな陽気さを伴いうるからだ。それは一人の大工が、対等の気持ちで、自分の木材と向かい合い、それを撫でさすり、寸法を測り、かりそめならず扱って、自分の気力の全てをそれに注ぎ込むあの気持ちなのだ」(人間の土地)

サンテックスはこう書いたあと、自分の尊敬する同僚パイロットのエピソードを書いています。この「美質」はホントに何て呼べばいいんだろう、<誠実さ>とも言えるかもしれないし、、<公平さ>とも言えるかもしれないし、<正義感の有る人>とも言えるかもしれない。

 俺も今まで生きてきて、何人かの、この種類の男らしさを持った男たちに出会いました。

小学生の時の同級生のT君なんかもそうだったな。
いじめられっ子をいじめている奴を見つけると、いじめている奴を怒ったのがT君だったし、そのいじめている奴がとても仲の良い友達でも怒っていたT君だったし、学校を抜け出しておやつを食いに出かけるワルガキの先頭に立っていたのもT君だった。学校を抜け出す時、他の奴に見つかって「隠れろ!」なんてワルガキ集団を指揮するのもT君だった。抜け出す所を見つかった時にT君がした事は、今思い出しても、どうしてもあれが小学生だったなんてちょっと信じられないんだけど、一度物陰に隠れて、「どうする?やばいよ、見つかったよ」なんて相談したあと、「よし!」と言って立ち上がって、「うお〜い、行ってくるぞ〜!」って手を振ったんだよね。そしたら、見ていた奴らも、「おー、頑張って来いよ〜」なんて言って、手を振り返してきて、それでそのまま、なんだかわからんがその場を切り抜けたっていう思い出が有る。

サンテックスは大工の例を出していたけど、俺も似たようにそういう人達が仕事をしているのを見ていて、その「美質」を感じた事が何度か有るな、、。
 昔、ダイバーやってた時、工事現場での仕事が多かったんで、重機のオペレーターや、職工さん達の仕事ぶりを見て、良くその「美質」を感じたものだった。特に港湾や海洋関係の現場で仕事をしている人達に強く感じたものだった。こんな時にはその「美質」には<度量>なんていう呼び方も出来るのかもしれない。

ダイバーの親方が「男の価値は、どれくらいメシが食えるかだな」なんて言っていた事を覚えているけど、それもまた、この美質の一つの側面を捕らえた言葉だと思う。
その美質を持った男の選択肢には、法律違反でも、場合によっては殺人すら含まれているのだと思う。要するに本質に対して誠実な人なんだと思う。

サンテックスがやはり「人間の土地」の中で書いているのだけれど、人間は都市や、都市と都市を結ぶ道に沿って生息していて、その道の回りが世界だと勘違いしている。飛行機に乗って上空から見ると、実は世界はもっと広くて、人間の生息している場所はほんの小さな場所でしかなく、人間が世界だと思っている道の両側には、とてつもなく広い、人間が生息していない大地が広がっている。社会の慣習が本質なのではないし、法律が本質なのではないし、良い学校を出て良い会社に就職するのが大事なのでも無いし、論理的なのが正しい訳でも、失敗しない事が優れているわけでもないし、立派な人は100%正しい訳でも無い。

 交差点で信号待ちをしている二人の男がいたとしよう。二人とも、信号が青になったら道を渡り始めた。見た目は同じ行動をした二人の男でも、一人は信号が青になったから道を渡ったのであり、もう一人は左右から車が来ないのを確認したから道を渡ったのだ。

日常のごくつまらない「道を渡る」という事でも、砂漠で遭難して生還した大冒険でも、本質に対して誠実な考えを持っている事が大事なのだと思う。

この美質をとても良く表現していると思うのは、
宮澤賢治の「雨ニモマケズ、、、、」というやつだ。
丈夫な身体を持ち、欲は無く、決して怒らず、
日照りの夏はおろおろ歩き、
年老いた母あれば、行ってその稲の束を負い、、。

「晴耕雨読」という言葉もそうだと思う。

ああ、こういうことを「言葉」を使って説明するのって、ホントに無意味な気がしてしまいながら、、、、。

でも、懲りずにサンテックスの言葉をもうひとつ。

樹は、種子であり、ついで茎であり、それからたおやかな幹であり、最後に枯木であるのではない。樹を識るためには、それを分割してはならぬ。
樹とは、ゆっくりと蒼穹に至る、かの力なのだ。(城砦)


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