古い日記から

● 11月11日(木) 久しぶりに会った大学生の友達、彼はいわゆる帰国子女っていうのかな?ずっと海外で育って、日本に帰って来たという奴なんだけど、彼に初めて会ったのは1年半くらい前だったろうか、、、。日本で育った同い年の奴とはちょっと違う、しっかりした所を持ってるな、って思った。それがどうだろう、久しぶりに会ってみたら、そいつが言う事には「明日水泳の授業で履く海パン貸して?」「競パンなら有るんだけど、みんなトランクスだから、、、」だと。で、俺は言いました。「暫く会わないうちにすっかり日本人になっちゃったなぁ、1年前のお前だったら、1人だけでも堂々と競パン履いてただろうに、、、、」と。     実は俺、ずっと昔全寮制の学校に入っていた事があって、そこを卒業してシャバ(^^;に出て来て、凄いカルチャーショックを受けた経験が有るんだよね。「○○行くから、ちょっと付き合ってくれよ」とか言う事多いけど、最初それがちょっとびっくりしたんだよね。トイレまで付き合って貰いたいのにはホントにびっくりした、、、。1人で行けばいいじゃんかって思ったなぁ、、、。  いつも競パン履いてるのに、他人が履いてないからって、他人に合わせる必要無いぞ、って言って、そいつにはその日、競パンを履いて授業に出る様にキツく申し渡しておいたぞ〜。

● 12月12日(日)  この前、ニュースを見ていたら、学校の先生に民間企業で研修を受けさせたり、民間で仕事をした経験の有る人を採用する枠を広げたりする事を検討だったか、提言だったかをしたというのをやっていた。
 うわー、この国も成長したもんだ、と嬉しくなりましたよ。
何故そうしないんだろうって、ずっと思っていたんだよね。ニュースの中のコメントに、
「世間知らず、などの批判が有る学校の先生に」という言い方をしている所があったけ
れど、それは、俺、ホントにそう思うんだよ。学校の先生には悪いけど、本当の事だと
思うんだよね。勿論例外はどこにでもありますけどね。
それで、俺が思っていたのは、学校の先生だけじゃなくて、お医者さんや、公務員や
2代目3代目の商店主の人達などにも同じ事が言えるんじゃないかということ。
職業別に人間をひとからげにしてどうのこうの言うのは非常に良くない事なので、もっと
他の言い方が無いものかと思うんだけど、今挙げた職業の人達を見て、そう思う事が多か
ったのは事実なんです。例外も有るし、一概に言えないのにこんな事を書くのは、ほんと
に気が引けるけど、そう思ってたんだよね。

先日、俺がやってる有る掲示板で(そこはセックスに関する話題をやってます)サーバー
のほうから、モラルに反する可能性が有ると指摘を受けました。
その時は、こちらも18才未満の人が見る可能性も有るんだし、素直に指示を受け入れる
つもりで対応したし、サーバーのほうも「セックスが人間にとって重要であることは理解
できる」という事で紳士的に対応して下さったので、削除にはならなかったんですけどね。
だから、その件に関しては何も言う事は無いのだけれど、セックス=アダルト=モラル違反
という短絡的な図式をあちこちで見てしまう事が多いのは、非常に残念に思うんだ。
 ただね、「子供」には見せてはいけないというのは大賛成なので、18才未満には見せて
はいけないという規制だったらとても理解出来るんです。年令で決めてしまうのも、個人差
というものが有るからヘンなんだけど、まあ法律などの手続き上やむおえないからね。
自分で判断する能力がまだ成熟していない「子供」には、刺激的なものは見せてはいけない
よね。でも、大人だったらねぇ、話は別だよね、、。こんな話をすると「わいせつ」って何
だという長大な話になってしまうんで、それはやめておきましょうかね。

 先日、このHPを18才未満の人が見られないようにする為に何か無いものかと思って、
フィルターソフトっていうのを見てみたんですよ。
それで、HPのセックス表現の過激さを表すランクが1〜4まで有って、最高レベルの4に
「愛の無いセックス」という言葉が書いて有りました。
それは勿論、特定の相手(恋人や配偶者)以外とするセックスの事を言ってるのだと思うけ
れど、俺も、セックスがそれで済むものなら、愛する特定の相手とだけしたほうが良いと思
うんだ。でもさ、それ以外のセックスってものも実際に有るんだし、それを悪だと決めてし
まうのはちょっと乱暴だと思うんだよね。「売春婦」を「人類最古の職業」なんて言うけれ
ど、それだけ昔から「愛の無いセックス」が有ったという事だし、現在でもちゃんと実在す
るわけで、「愛の無いセックス」が理解出来ないという人でも、どうして実在するのか考え
てみるのもいいんじゃないかと思います。ただ、考えても解るもんじゃない部分もかなり
有るとは思うんだけどね、、、、。本人にしか解らない事もたくさん有るし、とても複雑。

11月11日の日記に書いた大学生の話。
先日また彼に会ったんだけど、ずいぶん日本人になっちゃった彼だけど、まだまだ良い所は
ちゃんと残っていて、「いいよな〜、あいつ」って思いました。


4つの話を書きましたけど、この4つの話、みんな根っこが同じ様な気がしてなりません。

 

● 1月1日(土) 子供の頃や10代の頃は、詩や小説を読むのが好きだったけれど、20才頃からずっと、読む本は殆どノンフィクションになってしまった。
 この数年来好きで良く読んだのが柳田邦男(民族学者の柳田国男じゃなくて元NHK記者のほう)の作品。特に航空機事故に関するものが好きで、ゼロ戦から大韓航空機撃墜事件まで、殆ど全部読んでしまった。ノンフィクションで読みたいと思う分野は、何故か太平洋戦争と航空機事故に関するもの、あとは古代史や天文に関するもの、だったりする。
今日まで読んでいた柳田邦男の「空白の天気図」を読み終えた。柳田さんの作品で、航空機に関するものは全て読んでしまったので、”仕方なく”買って有った本だったのだけれど、やはり柳田さんの淡々とした”口調”に引き込まれてしまった。原爆の約1ヶ月後に西日本を襲った台風の災害を書いたもので、例えば今広島にお住いになっている方など、是非読んでこんな事があったのかという事を知っておくのも良いんじゃないだろうか。「あとがき」の中に昭和30年代の広島の小学生の作文に「その昔広島に原爆が落ちたという、」という表現が有って衝撃を受けたと書いて有ったけれど、さらにそれから30年以上経った今、もっともっと忘れ去られてしまっているのじゃないんだろうか、、、。
 太平洋戦争に関する本は随分読んだ。なんでこんなに興味が有るのか自分でも良く解らないけれど、読んでいていつも、切ない気持ちになるのは、戦争の悲惨さという面ではなくて、むしろ「あの当時も今も全く同じじゃないか」と思うから。当時の海軍の作戦計画などを見ると、「○○方面の敵を暫時撃滅し、機を見てこれを占領す」とかいう表現がたくさん有る。さらっと読んでしまうと解った様な気がしてしまうけれど、「暫時撃滅し」って言ったって、どうやって撃滅するのか何も書いて無かったりする。モノも食料も兵器も情報も不足した中で、どうやって敵を撃滅したらいいのかわからないけれど、とにかくやっつけるのだという苦し紛れの表現だと言えばそれまでかもしれないけれど、もしかして書いた本人は大まじめで書いていたかもしれないと思うと、なんだか残念な気持ちになってしまう、、、。こういうことが今でもたくさんまかり通っていると思う。「慎重に対処する」「前向きに検討する」などはまだ、出来そうも無いけど一応意見を言った人に敬意を表しておこうかという裏の意志が有るからまだ救われるほうだと思うけれど、政治家の発言ばかりではなくて、自分や自分の身近にいる人たちが口にする言葉にも意図的かそうでないかは別としてたくさん「言葉に騙されてしまっている」事が有る様に思う。いつだったかどこかに書いた「付き合う」という言葉もその典型だと思うし、「清い交際」「外見より人間性が大事」なども、本当にはっきりと具体的な意味を持って言っているのだろうかと疑問に思ってしまう事がとても多い。
 何かを考える時、言葉で考えて、その言葉で納得してしまって、はっきりした本当の意味を意識しないままになっている事って、みなさん、有りませんか?「付き合いたい」と言わずにもっと具体的な表現をしてみたらどうでしょう。「一緒にいたい」でもいいし、「キスしたい」でも「セックスしたい」でも「一緒に旅行行ってみたい」でもいいと思う。「恋人」ってなんだろう、「セックスフレンド」ってなんだろう、「親友」ってなんだろう、もしかして俺の中ではみんな同じモノなのかもしれないと思う今日この頃です。

1月26日(水) かず〜のほ〜むぺ〜じの掲示板にも同じ様な事を書いたんだけど、ミシンかけをしながら、それも写真の背景に使う為の生地を縫っていたのでただひたすら延々と直線縫いをしているときに、いろんな事考えるんだよね(^^; この前ある20才前半の子と話をしていた時、「ハッテンバに行ってるのが友達にバレるといやだから」っていう事を言っていたんだけど、そんな一言からず〜っと辿っていろんな事を考えてしまいます。16年間学校というところで育てられていくうちに、セックスをするのが恥ずかしい事だという意識を植え付けられてしまうのだろうか、とか、そこからまた辿って、学校の先生が世間知らずだという問題にたどり着いて行ったり、、、。思うけど、学校の先生ってさ、教科を教える講師と教育をする担任とに分かれたらどうなんだろうね。大学出たばかりの人が教育するなんて、ちょっと考えてしまうなぁ、、、。そこから今度はアキラさんの文章について考えて、、、アキラさんの文章を読んでまず思ったのは、内容には直接関係無いのだけれど、俺がいつも思っている「言葉で考える事と具体的に考える事の違い」について、だった。要するに何事もやってみないと本当には解らないわけで、そう考えると人間が一生のうちに本当に解る事が出来る事は、とても少ないんだろうな、と思う。机の上の言葉で得た知識って、一体どれほど人間の役に立っているんだろう。社会的には役に立っているかもしれないけれど、一人一人の人間の中で。言葉や知識というものが正しい人間のあり方(?)の邪魔をしている様な気がしてならない。
俺のプロフィールのページにも少し書いたけど、信号が青になったから道を渡るんじゃなくて、左右から車が来ないのを確認したから渡るのが正しいあり方だと思う。腹が減ったから食べる為に仕事をするとか、好きだから一緒にいたいとか、すげースケベなケツしてるから触ってみたいとか、あるものに情熱を感じるからそれを仕事にしたいとか、どうしてもお金が無いがこれと言って才能も無いので売春婦をするんだとか、学校のプールではみんなボクサーパンツを履いているけど自分は競パンが好きだから1人だけでも競パンを履くんだとか、人間は動物なんだし、理論で生きてる訳じゃないんだし、もっと自分の正直で率直で素直な気持ちで生きているべきなんじゃないだろうか。そういう正直な生き方がベースに有った上で、その上に社会的な道徳や義務や付き合いというフィルターがかかるべきものなんじゃないだろうか。それがなんだかフィルターだけになってしまっている様な気がして、一体この国の人間達はどうしちゃったんだろうと思ってしまうのでした、、、、、、。

● 1月31日(月) 文章で何かを伝えようと思った時、使う単語の意味を一々解説しながら書いていたら、とてつもなく長くて回りくどい文章になってしまうだろう。
単語の意味は国語辞典でも見れば書いてあるけれど、それってどういう意味で言っているの?という単語も良く有るものだ。
そもそも言葉というのは、「だいたいこの辺の意味」というほどのものを他人に伝える為に有るのだろう。その言葉を使った人の本当の心の中や、本当の意味など、そうそう簡単に伝えられるものではない。言葉というのは、そういうものなのかもしれない。そうそう簡単に伝えられるものではないと書いたが、言葉を発しないでも心底分かり合える事も有るので、人間が自分の考えを、肉体や行動で伝えるのを補助するのが言葉なんだろうと思う。
「彼は非常に立派な人間だ」と言えば意味は通じるのかもしれないが、彼が立派だと解って貰うには、彼のした事や彼の考え、彼の生い立ちから何から延々と言葉を並べて書かない事には解らないわけで、「彼は非常に立派な人間だ」という言葉には殆ど意味が無い事になってしまう。学校の美術や音楽の授業で、この作品の主題は何か、という質問をされた覚えが有るが、この絵の主題は「愛」です、と答えたところで一体何の意味が有るのだろうと思った事が有ったっけ。美術の先生が、教科書に載っていたピカソの絵を解説してくれた時に、「このお尻、かっわいいよねぇ〜、それにほら、この手がこうなっているところが凄く面白いと思うなぁ」なんていう授業をしてくれた時の事を覚えているけれど、なるほど、絵ってこういう風に見るものなのか、なんて思った事が有ったっけ。音楽の先生がタンホイザー序曲の話をしてくれた時も面白かったなあ。もうそれこそ夢見る様な目つきで、「すすりなく様なバイオリンの音から入って、、、」と、延々と自分の世界に入り込んでしゃべりまくってくれた。
水という液体を他人に飲ませてあげる時、容器に入れないと飲ませてあげられない。言葉というのはその容器の様なものなのだと思う。でも、手ですくって飲ませてあげる事も出来るし、口移しで飲ませてあげられる事も忘れないようにしたいものだと思う。そこにコップが有れば、手で飲ませてあげるよりもずっと確実に飲ませてあげられるのだからコップを使えばいいと思う。でも、コップ以外にも飲ませてあげる方法が有る事はずっと忘れないでいたいと思う。そして、コップで飲ませてあげる時に、たまにはコップを落として割ってしまう事も有るけれど、もう代わりが無い大切な水であったのなら、床に口をつけて飲む事も出来るんだという事も忘れずに覚えておきたいものだと思う。
「付き合う」「愛の無いセックス」「まじめ、ふまじめ」「モラル」こんな言葉を聞いた時にすぐ俺の頭に浮かぶのは、こんな事です。

 

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