令和3年12月2日 神様は存在する 不思議な力 |
長年生きて来て、来し方を振り返ってみると、やっぱり神様って居るんだな、と思う。 神様、という言い方でなくても、不思議な力、とか、運命、とかいう言い方でも良い。 それは科学的ではないと言うが、単に人間の科学が追い付いていないだけではないのか。 まず、話を少し狭く絞って神様は実在するかどうか、という点について考えてみると、 これはもう、実在する、としか言いようが無い。 それは、居ると思えば居るからだ。 心で神様に語り掛ける人ならば、それはもう、その人にとっては神様は実在している。 神を想う、故に神在り、というわけだ。 もう少し広く、人生の流れで考えた時にも、やはり神様、ないしは不思議な力というものは有るのだと思う。 生きていて、流れ、の様なものを感じる事は無いでしょうか。 なんだかずっと、ろくな事が無い時期が続く、あるいは絶好調な期間が続く、 というような。 ずっとついていない時期が続いて凹んでいても、次に来るのは良い事しか無い、 というような。 今がどん底だから、今後はきっと良い事が有るよ、などと言ったりします。 また、今日は何故か人がたくさん寄って来る日だなあと思う事が有る。 久しぶりの人から連絡が有ったり、初めての人と出会ったり、 どっと人がやって来る日というのが、何故か有る。 何故かその日に限って、人がまとまってやって来るのだ。 その逆も有って、いくら声をかけても、誰も集まらない日というのも有る。 そして、人生のピンチを迎えた時。 落ちるところまで落ちてみると、新しい展開が開ける事が有る。 そうなる前に頭で考えている時は、そんな事になったらもう自殺するしかないとか、 人生おしまいだ、とか思う様な事が実際に起こってみると、 新しい世界に足を踏み入れて、次のステージが開けてゆく。 また、あの人は凄く運が良い、という事も有る。 逆に、トラブル続きで全くツイていない人、というのも居る。 神様、どうもありがとうございます、と思う時も有るし、 神様は願いをかなえてくれなかった、と思う時も有る。 でも、願いが叶わなかった為に、新しい世界が開ける事も有る。 普段やらない様な事をやってみたり、やってしまったりすると、何か新しい展開が開ける事も有る。 不思議なものだなあと思う。 普段、靴を履く時、なぜなのか、いつからなのか解らないけれど、 左足から履かないと縁起が悪いと思っていて、必ず左足から履く様にしている。 もし右足から履いてしまうと、後で変な事が起こるかもしれないと思って、 面倒と思いながらもいつも気にして左足から履いてしまう。 さて、神様は本当に居るのだろうか。 いつも運が良い人、というのは、その人が普段からきちんと準備しているからうまく行くのではないのか。 いつも運が悪い事ばかり起こる人は、普段から注意力が無かったり、準備不足だったり、 考えが足りなかったりするからなのではないか。 もうダメだ、と思った時に新しい世界が開けるのは、それは、新しい世界などではなく、 単に自分が知らなかっただけ、そういう道も有る、という事を考えなかっただけではないのか。 全ての事象には理由が有る。 複雑すぎて、科学的に検証できない様な理由が有るのだと思う。 わらしべ長者という話の様に、自分が何かするとそれがドミノ倒しの様に連鎖していくのではないだろうか。 量子コンピューターが出来ると、この複雑な因果関係も検証できるのかもしれない。 全ての事象には理由が有る、という事になるのだろう。 ただ、若い時に全てを知って、全てに注意深く生きる訳ではなく、間違いを犯しながら生きてゆく。 その因果応報が人生の流れになるのだろう。 未知の世界というのは、また、新しい世界が開けるというのは、単に自分が知らなかっただけの事で、 ずっと前から存在しているのだ。 良い事が有ると、「普段の心掛けが良いから」などと言う。 それはその通りなのだ。心掛けが良いから良い事が起こるのだ。 全ての事象には全て理由が有る。 でも、人間の頭はそんな計算は出来ない。 知らないという事は存在しないと同議になる。 良い事が起こる様に全てを準備すれば良いのに、全てを準備する事は出来ない。 だからやっぱり、神様は居るのだし、全てを知る事が出来ないから不思議な力だと思うのだろう。 人間は不完全で無知なのだ。 自分の知らない事は存在しないのだ。 だから年寄りのアドバイスを「わけわかんないこと」と思ってしまうのだ。 そういうわけで、全ての事象には理由が有る。 けれど、その全てを人間は考える事は出来ない、知る事は出来ない。 だからそれを不思議な力だと思う。それを神様だと思うのだろう。 さて、今日も、良心に従って誠実に生きる事にしよう。 キリシタンバテレンの妖術 天照大神 |
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