かわいひでとし日記
令和8年4月29日      浅はかな知識      知識より教養
  
日本の学校では生徒たちが教室などを掃除する。

これに対して、

そんな時間が有ったら勉強したほうが良い、とか、

そういう事は業者がやる事だ、業者の仕事を奪うべきではない、とか、

色々な事を言って批難する人が居るらしい。

浅はかな理屈だと思う。

実際にほうきで床を掃く、ぞうきんで拭くなどをして感じる事、覚える事、

非常に多くの事を学べるものだ。

掃除のやり方から気が付く事から、自分で汚したものは自分で清掃するという道徳心から、

社会で生きる事の嗜みや責任感などまで、非常に多岐にわたる。


学校で水泳の授業など必要無い、という人が居るらしい。

体育の授業も必要無いなどと言う人も居るらしい。

家庭科や図画工作なども不要だと言う人も居るらしい。

一体何を目指して教育というものをするつもりなのか。

1人の人間として生きてゆく力を与え、社会でのふるまいを教えるのが教育ではないのか。

学力とか偏差値とか学歴とか、本来どうでも良い事を

なぜここまで重要視して大事な事を忘れてしまっているのだろうか。


ある組織が人間を採用するにあたって、

使える人間か、優秀な人間かどうかを判断して取捨選択するのは当然の事だろう。

けれど、その基準を学歴や偏差値に置くと言うのはあまりにもバカげた事だ。

人間の優秀さと学力は何の関係も無い。

学力や学歴にこだわってしまうのは、採用する人間に教養が無いからでも有る。

何年間か試用期間を取ってから採用するかどうか判断出来れば良いが、

そんな事は出来ないから学力に頼ってしまうのは一定の理解はするが、

では面接での質問や観察力で判断するには教養が無くては判断出来やしないのだ。

結局、世の中が良い方向に進むのか悪い方向に進むのかは、

教育にかかっているのだ。

そしてそれは受験勉強をする教育ではないのだ。

現在の日本を見ていると、立法や行政や経済などで指導的立場に居る人間が、

学歴だけ有って教養が無いから国が良くならないのだろう。

官僚や大企業の社長たちを見ていて、どうしてこんなにバカなのだろう、

と思う事が非常に多い。

この人達は一体何を目指しているのか、と、絶望的な気持ちになって来る。



昔、スマホなんてまだ無く、インターネットも無かった時代、

初めての場所に行く時は家を出る前に地図を見て、

だいたい頭に入れておいて、感だけで現地まで歩いたものだった。

なので自分は今でも、どこかに行く時は事前に地図を見て頭に入れている。

鉄道線路に対して道路が斜めになっている様な地域の場合、

感が狂って方向を見失ってしまう事も有るのだけれど、

その場で考えて、色々な物を見てなんとかたどり着いたりする。

何をするにもそうやって自分で考えてやる事を忘れてしまうのは

ちょっと人間という生物として能力が足りないのではないか、と感じる。

事前に大きな範囲で頭に入れておいてから実際に行動するというのは大事な事だ。

これには膨らみというものが有る。

それに対して知識偏重の考え方は質問→正解というだけの、一本の線だけであって、

上下の膨らみというものが無い。

要するに、学力だけ有って教養が無い状態と同じだ。

では教養とは何だろうか。

それは、たくさんこぼれてしまうのを覚悟で簡単に言うと、

引き出しがたくさん有り、どの引き出しに何が入って居るのか、

連想する力だと思う。

日本はどんどん人口が減っていて、もっと人口を増やさなければならない、

などという問題意識が有る場合にどう考えるか。

もっと人口を増やさなければならない、その為には結婚して子供を作る人を

増やさなければならない、などと直線的な考えしか浮かばない。

もっと幅の有る考え方をしたらどうなのだろうか。

高度経済成長した時の日本の人口は9千万人だった、

江戸時代から急速に近代化をした明治時代は4千万人前後だった。

1億2千万を維持する必要がそもそも有るのか、やる気が有って優秀な人が揃っていれば、

別に9千万でも良いのではないのか。

人口が減るのは結婚する人が減っているから、作る子供の人数が減っているから、

それを増やすにはどうしたら良いのか、

保育園を増やすとか子供手当を出すとかではなく、

可処分所得が増えて、先行きに希望が持てる様になればそれで良いのではないのか。

それではこども家庭庁など廃止してその予算数兆円で減税したらどうなのか。

幅の広い思考をしないといけないのだろう。



教養とは引き出しの多さだと書いたが、

これもかなり色々な事がこぼれてしまっている簡単な言い方だ。

もう少し別な言い方をしてみる。

例えば暗黒の宇宙の様な空間のどこかに、「真実」というものが有るとする。

そこで1本のろうそくに灯を灯してみると、「真実」というものが見えて来る。

ああそうか、「真実」は円形をしたものなのだ、と理解する。

その1本のろうそくと言うものは「知識」と呼ばれているものだ。

それに対して教養の有る人はたくさんのろうそくを持っている。

たくさんのろうそくで照らして見ると、「真実」とは円盤状のものではなく、

球体である事が解るのだ。

たくさんのろうそくを持つにはどうしたら良いだろうか。

それはたくさん経験をする事だ。

しかし、1人の人間には限りが有って、多くの経験を積む事は出来ない。

だからこその読書や勉強だ。

本をたくさん読むという事は疑似体験を積み重ねる事でもある。

それによって連想する力が生まれる。

一つの事に対して、あっちからもこっちからもろうそくを照らすのだ。

一つの事に対して、そういえば、あそこの引き出しに似たような話が有った、

と連想するのだ。

質問に対する回答は決して一つではないのだ。

だからこそ、受験勉強ではなく、教養を身につけなければいけない。


財務省では増税をした人が出世するのだと言う。

さらに彼らは自分達の所にカネを集めて、それを権力にして政策を決めようとする。

そして自分が天下りする所へ補助金などの金を与える。

良く言われる事だが、国債を発行するとそれは国民の借金になる、などと言う。

それに対して、国債を買っているのは殆どが日本国民であり、

償還期限が来たら借り換えれば済む事であって借金などではない、という意見も有る。

そう主張する人達は、財務省の官僚がそもそも経済を全く解っていないなどと言う。

財務省の官僚たちの頭の中は単式簿記で、借金の事だけ言って資産の事は言わない、

などと言われる。

一体何をやっているのだろうか。何の為の財務省なのだろうか。

何年も前から「財務省解体論」がくすぶり続けているのはこの為だろう。


こんな事を考えると思い出すエピソードが有る。

宮澤喜一のことだ。

昔、総理大臣をやった宮澤喜一は、誰かが訪ねて来ると、

「君は何期?」と聞くのだそうだ。

東大法学部の何期卒業か、という意味なのだ。

いえ、私は早稲田でして、などと返答すると宮澤は、

「あっそ」と言ってプイと横を向いてしまって話もしなかった、というエピソードだ。

ここまで来るともう、バカを通り越して基地外と言うべきだろう。

その宮澤喜一は、韓国左派の嘘を真に受けて、わざわざ韓国に謝りに行ってしまった人物だ。

ここまで国益を損ねる東大法学部卒とは一体何だろうか。

ただちに大学の受験制度を改革して小学校からの教育を見直す必要を痛感する。



学校や家庭では、料理の作り方やモノが壊れた時に自分で修理する事や、

空間を清掃して綺麗に保つ事や、自分で考える事を教えなくてはいけない。

そして、身体を動かして運動をする事もさせなくてはいけない。

いくら知識をたくさん持って何かの専門家になったとしても、

身体が弱くて病気ばかりでは役に立つ事は出来ない。

そもそも今の学校では、自分が生まれ育ってお世話になっている日本という国が

どんな国なのか、殆ど教えない。

あまりにも酷い話だ。

教育の目的は東大やハーバードではない。

自分なりに工夫して社会で生きてゆく為だ。

無用な大学を廃止して、高校までの教育を充実させて、

高卒の優秀さを見直して、ブルーカラーの給料を上げるべきだ。

今の国会で、教育を根本から改革する事は出来るだろうか。

ちょっと無理だろう、と思わざるを得ない。

一体いつになったら改革出来るだろうか、、、。















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